暹羅(シァム:タイ國)の歴史
後印度歴史 第三 暹羅
【建國の紀元】 暹羅は往古老檛(北部)、(中部)、及び羅斛(南部)の三國に分れたりしが近來一統せり、隋の時始めて支那と通ず、當時羅斛瞿曇氏王たりしが唐の始め孛羅際亞王代り立ち、國を羅越と號す、是れ此國の祖先にして其即位の年を以て紀元々年となす、唐太宗貞觀十四年、日本舒明天皇十二年なり。
【暹羅の盛衰】 老檛及びの兩國は隋唐の前後に興りし者なるべし、其盛衰を詳にせず、元の末葉羅斛には革命ありて新王立ち暹國を併せて國を暹羅と號す、後使を明太祖に通じ暹羅國王の封爵を受けたり、王政衰ふるに及び孛羅孫曇、僧族より出でヽ位に即く是第二期の始めなり、明萬暦年間日本慶長年間なり。
【日本の交通】 明の末葉日本戰國の后に當りて日本の商船は安南占城甘蒲塞、等二十余國に往來し暹羅も亦相交通せり、日本山田長政來航し王の爲に阿瓦等の來攻を防ぎて功あり、遂に右相となる、左相之を嫉み新王立つに及び廢立を行ひ長政を害したり。
【暹羅の敗滅】 此後日本は外交を禁じ支那又明Cの革命あり、而して暹羅も簒奪相次ぎたり、次で後印度諸國互に相爭ひ琵牛を攻め安南と戦い又C朝と事を交へ勝敗あり遂に阿瓦の爲に滅さる。
【暹羅の近世】 暹羅はCの初世阿瓦の爲に全滅せられしも鄭昭起りて國を復し般谷に都す、次でC朝の封册を受けて暹羅國王となる、其後安南柬蒲塞を爭ひて其土を得勢益振ふ。
 暹羅王は印度緬甸の興廢を鑑みて世界の体勢に從ひ、西暦千八百五十三年以后は開國の方針を取り、C國は元より英吉利佛蘭西亞米利加とも通商を開き、今や鳩拉侖哥羅焉王位に在りて益々治を圖り、明治二十七年には日本とも通商條約を結べり、後印度三國に於て獨立を保持する者獨り此國あるのみ。
後印度 インドシナ
暹羅 シャム
老檛 ラオス
セン
羅斛 ラコク
羅越  
安南 アンナン(ベトナム)
占城 チャムパー
甘蒲塞 カンボジア
阿瓦 アバ
琵牛 ペキギュー
般谷 バンコック
柬蒲塞 カンボジア
緬甸 ビルマ
英吉利 イギリス
佛蘭西 フランス
亞米利加 アメリカ
瞿曇氏 クドン氏(Gautama/御釈迦様と同姓。同族?)
孛羅際亞王  
孛羅孫曇  
鄭昭 ピヤ=タクシン
阿瓦 アラウンパヤー?
鳩拉侖哥羅焉王 チュラロンコン(chulalongkon/ラーマ5世)?
   
   
 
文部省檢定濟『中等東洋歴史 全』(高山榮一校閲・敬業社 明治32年5月20日訂正再版印刷發行)より。
現代は、温故知新の精神が大切ですね。